街の名物おじさん

■清潔感至上主義の障害はパートナー呼称。無マンコ気取り糞女が考え出した差別用語。リーズナブルな着回しをすることしか脳がない特権階級の歯糞を分解する清潔感こそが普通の人間だから歯糞が歯糞であると俺は気づいている。歯糞に触れることすらなかった俺は歯糞を歯糞だとGoogleの検索窓を拡大解釈。つまりプラスボタンを押しながら射精する。受精もクリックも試行。本来ならクリックで子供は生まれるはず。はずはないがベキである。それは次元の違いだからオタクの抱える命題というわけではなくてエンターテイメントに救いを求める人間全ての危機であり僕は検索窓との性行為に、着床に成功せねばならない。


■土が盛られたまま建設会社が撤退した空き地にひとり。

さらさらとした盛り土を足の甲で蹴り上げながら、スマートフォンにブツブツと呪詛のように何かを呟き続ける僕は、小学生から街の名物おじさんとして恐れられていた。いや、気味悪がって恐れていたのは彼らの保護者だけであるからして、ランドセルを背負った彼らは僕にリコーダーを投げつけてくる。先端に「田窪」の名前が入っていることから、田窪の呪いとやらを僕に掛けているのだろうと予想する。僕はそれを清潔感至上主義のせいにしながら、またひとつ清潔感が世界の理であることを証明した。足の甲で蹴り上げた盛り土が足の甲に戻ってくる。僕は足の甲で盛り土を蹴り上げた。足の甲で蹴りあげた盛り土が足の甲に戻ってくる。

スマートフォンに向かって呟く"証明"は接続詞を持たず、それは言語として最も完成された最適解であった。自分に対して自分の偏見を証明し続けることで僕は生き永らえることが出来ているのだから、当然、言語は僕の偏見を証明し続けるために進化する。僕は、外的情報を最も効率的に偏見に変換するように進化した言語を使っている。投げつけられた砂が汗ばんだ首筋に貼り付く。小学生が投げる砂が、差し込んだ夕日に反射してキラキラと輝いている。またひとつ清潔感が世界の理であることを証明する。

蛍の光が流れると、子供達は田窪の呪いを操る呪術士から無垢な少年へと変わる。僕に掛け損なった田窪の呪いの欠片は、彼らの家で出来立てのハンバーグと一緒に飲み込まれ、なかったことになった。彼らは、そうやって、なかったことにしながら田窪の呪いを掛け続ける。そして明日。ハンバーグがひっついたフォークを握った手で田窪の新品のリコーダーを握り、ハンバーグの残り香をなかったことにするのである。

■子供達が正しく無垢なものになり終えると、僕は足の甲で盛り土を蹴り上げるのをやめる。田窪の呪いを掛け続けられるこの時間が、競泳中の息継ぎの役割を果たす。
ボロ切れを脱ぎスーツに着替えた僕は、今日やり残した事務処理を片付けに品川駅付近にあるオフィスへと戻る。


■名物おじさんになるのは、家出のようなものだ。狂気なんて誰にでもあって、そこに出掛けることは、興味さえあれば誰にでも出来ること。本物は、狂気に住民票を移している。名物おじさんになった僕は、「影日向に咲く」でホームレスの格好をしてニンマリと広角を上げるのサラリーマンと同じ顔をしていた。影日向に咲く。を知らない人間に「義務教育じゃねえんだ自分で調べろ」と言い放ちたくなる振りをした、普通の人間の顔だった。サラリーマン生活に嫌気がさして憧れのホームレスに堕ち、自己陶酔に浸ることができた彼と同じ顔をしていたのである。ほらこうやって説明しちゃってる。堕ちた自覚を持たない本物の狂人になる度胸なんてハナからないのかもしれない。名物おじさんとして物価の安いこの土地に名を馳せることは、狂気の世界へ家出をするようなものだ。帰る場所というセーフティーネットがある逃避行。セーフティーネットに引っ掛かってから網を切るか切らないか選べばいい。特権階級の戯れ。僕は、賞味期限が切れていないジュースが売っている地区で、あろうことか厚生年金を支払うような生活をしていた。本物の名物おじさんでは成し得ない役所の手続きと、持ち得ない納税感覚を持った凡夫が本当の僕である。



■本当は、セーフティーネットなんて、ブチ切ってしまえばいいんだ。引っ掛かる間もなく、落下しながら64コントローラの下Aボタンを押し、尖った剣先で突っ切ってしまえばいい。僕は、何者にもなれない。わけじゃなかった。何者かになるのが怖かっただけだ。

■山手線内回り次は浜松町浜松町。僕はこの自己陶酔に溢れた癖を、あの最適解言語で清潔感至上主義に結び付けようとした。アナウンスは歪み、浜松町の次は浜松町に停まる。逆流する胃酸はまるで溺れて水を飲んだような辛さだ。人が溺れるのは息が苦しくなったからじゃなくて、顔を水に浸しながら空気を吸おうとするから。