魔法のiらんど

■鍵を掛けようとしたことも、一番お気に入りのコートを着て出ていこうとしたことも、社用携帯の電池を確認してから電源を落としたことも。この逃避行がごっこ遊びであることを物語っていた。

キッカリと6時間の睡眠をとった僕の頭は冴え渡り、ケータイ電話が鳴り始める前にアラームを止め、そのままツイッターのタイムラインを眺めるかのように何気なく、東京行きのチケットをとっていた。

 レムとノンレムのタイミングのせいかもしれない。

 昨晩の自慰行為で使用した水戸商業高等学校チアダンス部まちなかステージが、青春を象徴していたのかもしれない。

 昨晩みた夢のせいかもしれないし、若林正恭に心酔しているせいかもしれない。

 障害者手帳3級を手にしたせいかも知れないが、少くともそれは、他の可能性と同列であった。

 幼い頃、四人家族の父親が蒸発したというニュースが流れた。母は彼の責任感のなさを嘆き、僕は蒸発の意味がよく分かっていない振りをした。2歳の弟は日本語ではない言語で何かを喚いていて、父は、「理由なんてきっと、いつもより空が澄んでいたとか、飲んだ珈琲がおいしかったとか、そういうことなんだろうなあ」と、誰に言うでもなく呟いた。

 僕が父親を尊敬した数少ないエピソードのひとつだ。
 
 デスクトップ画面のなかでは、ハイキックからハミ出す陰毛が春風でそよぎ、まちなかステージの空は、いやに澄んでいた。

■人にはみな、何かしらの液体が表面張力ギリギリで注がれており、大人とは、それを溢さないようにバランスをとりながら生きている人間のことである。

 だからこそ狂人と凡人なんてものは紙一重で、蒸発する人間としない人間もまた、そうなのだと思う。

 そんなわけで、表面張力ギリギリの器に注がれた液体が夢なのか思想なのか精神病なのか、僕には分からなかったのだ。

 とにかく、寝巻きからスーツを手に取ることもなく私服に着替え、財布とケータイと3ヶ月分の給与明細のみをトートバックに投げ入れ、家を出た。

 扉を閉める間際、机の上に置かれたままになったストラテラが見切れる。強制的に脳細胞を破壊し、感情を殺し、朦朧とした意識と引き換えにエクセルの確認作業が出来るようになるクスリは、精神安定剤から危険物に変わった。

■外に出て、24時間営業のドラックストアに立ち寄り、工業用エチレンアルコールをカゴ入れる。ストラテラを捨てた僕には、新しい精神安定剤が必要だ。脳に欠陥があるのなら知性を脳の欠陥に合わせればいい。脳の欠陥にを知性に合わせるよりも遥かに合理的である。

 空港への足取りは軽く、飲めば重篤な脳障害を負えるエチレンアルコールは、新しい精神安定剤の役割をキチンと果たしている。

 8時40分。社用携帯に着信が入る頃だろうか。スクショ画面をさっさと航空券に引き換え、スマホの電源を落とす。

 空港のロビーに腰掛けても、いまいちピンとこなかった。感慨に耽るほどの思い入れもなければ、会社に罪悪感を感じるほど、僕の失踪が損害を与えないことも分かっていた。

 スマホの電源を入れ、翌月の三連休に飛行機を振り替え、その足でメイド喫茶へ向かった。毒にもクスリにもならない会話を数時間ほどこなしたあとに家に帰り、いつもと同じ時間に自慰行為をし、食事をとり、社用携帯の着信履歴を確認し、床に就く。キチンと鍵を掛けられていた玄関は、この逃避行がごっこ遊びであることを物語っていた。

 キッカリ6時間の睡眠をとった僕は、スーツに着替え、ストラテラを服用し出社する。月曜日の朝は一週間のなかで自殺率が一番高いらしい。その意味を考えながら原動機付き自転車を駆動させ、何らかの結論が出る前に会社に着いた。

 握り締めた工業用エチレンアルコールの温度は温くなり、飲みにくい。